絶対的信頼。


「おとといはウサギを見たわ。きのうは鹿。今日はあなた」


今の私を破壊することのできる台詞があるとすれば、コレに違いありません。
状況は、冗談でも何でもいいんです。
ただ、私のよく知らない女性、に限りますけど。


一番考えられるのは、初対面(または、それに近い)の相手が小説の好きな女性で、
それで話が弾んだ時に口に出されるっていう感じでしょうか。
一番好きな台詞、とかでもいいし、泣いた台詞とか、
あとは小説当てのゲームみたいなものでも、状況はいくらでも考えられます。
とにかく、


「おとといはウサギを見たわ。きのうは鹿。今日はあなた」


という台詞が両耳を通過した瞬間から、私は間違いなく壊れていく。
なぜか。
単純に言うと、時間に対する信頼が根本的に揺らぐからです。
私は「時間」に対して「生」と同レベルの信頼を置いています。
普通の人もほとんど同じだと思います。


つまり、誰もが「生きていること」に対して絶対的な信頼を置いてます。
それは、そうしないと生きられないからです。
意識・無意識は、関係ありません。
普通は無意識なのですが、これが信じられないとなると生きていられない。


同じように、誰もが「時間の不可逆性」に対して絶対的な信頼を置いてます。
これも、そうしないと生きられないからです。
時間が可逆的で、未来が過去になったり過去が未来になったり、
そういうことがまかり通れば、まともに生きてはいられません。


「生」も「時間」も確信はない。
だから、恐いのです。


「生」に関して言えば、例えば、自分は5500年後の未来にいて、
本当はもの凄くリアルな家庭用体験ゲームをやってるのかもしれない。
そういう風なことを考えると、人によっては「生」に関して重大な危機が生じますよね。
同じことが、私にとっては


「おとといはウサギを見たわ。きのうは鹿。今日はあなた」


という台詞に言えるのです。
まず、台詞を発した目の前の人間が”本当に現在の人間か”信じられなくなる。
確かに冗談で言ってるかもしれません。
しかし、その確証は絶対に得られないんです。
なぜなら、時間は不可逆だという明白な証拠はないから。


例えタイムマシンで歴史を変えられたとしても、
それは小説だと、みんなの記憶の中の事実そのものがなくなるから、
結局証拠はないんです。


だから、私は答えのない、それでいて抜け出せない永遠の地獄に落ち、
かなりの人間不信と、現在に対するありとあらゆる疑念を抱くと思います。
と同時に、小説の刷り込みと思考の混乱、錯誤、色々なものが重なって、
その女性に対し好意を抱くことは明らかです。
しかし、時間に対する信を失ってますから、結局は悲惨の一途。
みなまでいうまでもありません。


ですから、非常に危機感を感じてます。
もし、そうなってしまったとしても、まだ這い上がる術を持ってませんから。
うーん、どうしたものか。