3年B組 金八先生

先週(第二話)の録画予約が野球中継(以降の番組は1時間繰り下げ…)のために失敗したので、
前の1時間分のストーリーは諦めて今回の第3話を見ました。


さすがにパーツ不足により各分野の補完作業は中止。
飯島弥生がなんであんなに元気なんだとか、丸山しゅうのトラックは何だとか、数えるとキリがない。
まあ、それは仕方がないとして、今回(今期)は全体として情報量が多すぎてクラクラします。


設定ではないですよ。教室を舞台にしたシークエンスにおける情報量のことを言ってるのです。
以前のシリーズに比べて、それはもう圧倒的と呼んでもいいほどです。


ぷらっと近所の高校に行って、昼休みの教室でカメラをまわしてる感じ。
まわすといっても、ただ定点で録画するのみで、そして、それを撮影後に見せられてる時の感覚に近い。
つまり、「これは…何なの?」っていう、その一言に尽きる。
金八先生という作品では、その逆で、物語上のキャラクター的情報が個々に発生しているから余計たちが悪い)


撮影者が制服マニアなどというのなら話は別で、それなら視聴者本人の趣向(パンチラとか)と制服以外の情報は排除可能です。
だから要点を絞って鑑賞できるわけで、もともと画面上の全ての情報を脳内処理するのは視覚的構造からも不可能となっています。
要するに、映像の主題不在においては視聴者側の情報選択性(取捨選択)に極めて深刻な問題が発生するわけです。


今回のドラマは、坂本金八という男が騒がしい教室の中でしゃべるんですよ。
以前のシリーズでは「静かにしなさい!」というと一応静かになりましたから、
各キャラクターに関する物語とドラマは一時停止するわけで、
情報量としてはいったんゼロになりますから視聴者側に混乱は生じなかったのです。


しかし今期は違います。
金八先生が怒ってもシーンとはしないのです。
統制が取れていない感じ、つまり「うるさい」という表現は視聴者側に十分伝わってきます。
しかし、金八先生がしゃべっても騒々しい状態は平行して続くわけで、
見ている側にとっては「誰が何をやってるのか分からない(処理できない)」んですよね。
これは、キャラクターの重みが総じて近いことに最大の原因があります。


先の例で行くと、撮影者が制服マニアであり、学校の備品マニアであり、インテリアマニア…というように、
見る側としては情報を取捨する作業が膨大になる事態に似ており、この作品の場合は、
制服や学校の備品ではなくキャラクターということに注目しなければなりません。


ケンカが始まれば、それはもう同時並行的に様々なことが起こるわけで、
もはや一個人の情報処理能力を超えてる気がします。
(以前のシリーズと違うのは、静か動か一つであったギャラリーが内部分裂している点です。)
「色んな生徒がいるんだよ」「以前とは違ってまったく統制が取れないんだよ」ということは分かりますが、
第1話ならまだしも、キャラクターが物語上成立した後も随時入ってくるとかなり混乱することになります。


演出家が何を狙ってそういうことをするのか、かなり理解に苦しみます。
情報量を操作することが演出家として基本も基本、最大原則として求められるんですけど、
だから、特に教室のシークエンスでは明らかに失敗してる気がするんですよ。


今回のように、何十人と登場人物(3年B組生徒)がいる中で特定の主人公(金八を除く)を決めないという、
つまり、キャラクターをあえてランク分けしないというのがこの作品の特徴だと思うんですけど、
そうすると当たり前のように厳密かつ適確な情報量操作が求められるわけです。


一番にその才能が発揮されるべき場面というのが、教室という場所で、
それはもう何十人という登場人物が一斉に個性を発揮するのですから複雑です。
普通の作品と違い、キャラクターの重要度(重さ)は限りなく近似しており、
そこにドラマという属性が人数分発生(進行)するわけですから、制御できる方が奇跡に近い。


「こんな世の中だから、色んな生徒がいるんだよ」という展覧会としては十分成立してるところを見ると、
やっぱり、演出を史上最強の布陣に変える必要があります。
逆に言えば、もはやドラマとして成立できないところまできている、と言えるんじゃないでしょうか。
それだけあの年代も複雑細分化してるってことで、それに社会的要素も加わるとファクターが過剰過多になって、
一つの作品として戦略的に成り立つのか疑問です。
ただ、これからは少子化時代なので、キャラクターを減らすこと(少人数学級)によって解決可能かもしれません。


それはそうと、なんでこんなに憤りに近い書き方をするのかというと、
家庭で問題があれば必ず家の近所か例の土手でおばちゃん達がヒソヒソ話する、
なんていう記号的演出をするところに、もの凄い嫌悪感を覚えるからです。


「こんな世の中だから」というものを描くのであれば、時折出てくる世の中くらい真剣に演出して欲しい。
今回は、丸山しゅう君が登校する場面に出てきたんですけど……。


もうね、いいようのない怒りが込み上げてくるんです。
いったいどこのおばちゃんが朝の土手でヒソヒソ話をするっていうのだ!!!
今のおばちゃん連中は、朝食の用意もしないで遅くまで寝てるか、
経済状況を反映してパートに出かける準備をするかしてるんじゃないのでしょうか。


ある家庭的事件の「地域社会の受け止め方」のようなものを描こうとしているのは分かりますが、
どうしてこんな使い古された何十年前の表現を今更採用するのだろう。
演出の方法としては他にいくらでもあるでしょうに…。


演出で良いところと言えば、キーパーソンである丸山しゅうの物語では結構良い感じにできており、
家の奥で寝ている父親らしき人の存在と「麻薬に過剰反応する」事実が少しずつ見えてきて、
それまで幸せな家庭が麻薬によってぶち壊されたであろうことを想像させてくれます。
その辺は本編を全部見ない限りハッキリとは分かりませんが、レイアウトを含め演出的には良いと思います。


しかし、総じて、もうちょっとマシな演出家を採用した方がいいんじゃないでしょうか?
というのが今日の感想でした。