ネコミミモード

近隣の宏哉さんとお会いしてきました。
自分より頭の良い人の話を聞くのは、実に楽しい。
自分における最高レベルで話が出来るわけで、こういう機会ってのは私の場合は大変に貴重で、かなり感謝してます。
ってことで、1日中おしゃべりモードでした。


ネコミミは後述するとして、とりあえずも何も、アニメの話です。
今年上半期に話題になった某映画を鑑賞後、アニメーションにおけるCGについて語り合いました。
観客から見た側のCG技術を”快・不快”(自然・不自然)のレベルで語るとすれば、
それは観客の映像補完能力とCG技術(発達過程)の差の縮小によってのみ解決されます。


つまり、最初に観客側の問題があり、CGがいくら発達してもその根本的な問題を解決しない限り、
いつでも「不快」というものは発生する、ということになります。
しかし、違和感のレベルでいえば、実写映画を見れば分かるように”調律点”は存在するのです。


どういうことかというと、必ずしもCGの発達と観客の映像補完能力が同一にならなくとも、
CG技術がある程度の域に達すれば違和感はなくなるということです。
普通は現実世界で周りの景色を見ても違和感を感じませんよね。
では、その景色を2D(スクリーン)に映した実写映画はどうかというと、やはり違和感は感じないのです。


要するに、表現方法としてのCGの発達レベルの限界値(最高値)は「現実と同一」であることになります。
今のCGが目指しているのも、まさしく「現実と同一」な表現なのですよね。
先に話した某アニメ映画に登場するガラスが割れるCGでは、
重力を付与(計算)することによって、ガラスの破片が飛び散る様子を「現実と同一」にしています。
足りないものと言えば、質感云々の”これからの技術発達に期待される”要素だけです。


技術の発達を無制限に拡張(無視)すれば、CG=実写ということになり、果たしてアニメはそこまでいくのだろうか。
実写とアニメーションの最大の違いは、その表現力であり、誰がどう見てもアニメの表現力の方が圧倒的に強いのですが、
CGはある段階からその表現力を抑制する方向に働くようになったと私は考えます。


それが「現実と同一」な表現というわけです。
(誤解のないように書くと、現実に限りなく接近したCGによる表現方法)
CGで扱う技術と”世界観”は一致していなければなりません。
明らかに嘘である世界に現実を持ち込むとどうなるか、それは実際に作ってみなくとも容易に想像できます。
世界観の一致が条件となるなら、アニメの設定としては極めて現実に即したものか、まったく嘘だらけのものか、
そのどちらかということになり、表現も糞もないわけです。


だからどうするかというと、CGをアニメーション(セル)に近付けるのですよ。
つまり、アニメの売りである表現力の根源はセルを使った技術であり、
それは最初から「嘘」であると分かるから、CGのような映像補完能力の問題も発生しないわけです。
「本当らしい」と思えるから観客はCGの視覚的落差を埋め合わせる方向に向かうわけで、
最初から嘘であるアニメーションという分野であれば、あとは自動的に世界観がやってくれるので、
観客は違和感なくアニメーションを試聴可能となります。


まとめると、CGの今後を述べるとすれば、恐らく「CGをCGだと見せない」方向に進み、
それは現実へ進行するのではなく、仮想現実(アニメ)に向かって進行するのだろうと思います。
これは決定的に重要なことで、CGをCGと見せないということは極めて当たり前のことですが、
その方向性によってはアニメという表現方式が滅びかねない問題を孕んでいるのですよ。


ということを、宏哉さんと話していて思いました。
余談ですが、途中、頭が混乱して分からなくなったのですが、
後述するネコミミを聞いたとたん、全てがスーっと解けていく感じがしたのです(笑)。


さて、次は演出の話。
私は絵が描ける人間だと恐れ多くも思っていまして、この業界に入るならアニメーターとして入りたい、と考えていました。
しかし、自分の絵をネットに公開するたび、絵に対する虚構の自負は崩れ去り、
残ったのは絵心がないというかなり強烈な実感ということになりました。


しかし、アニメは好きなので何かしら接点は持ちたい。
そこで「仮にやるとすれば…」という話を宏哉さんとしたのですが、もはや「演出」以外ないのです。
演出は(一部の人にとっては)かなりやり甲斐のある仕事には間違いありません。


音響がダメでも、作画が狂っても、演出さえよければハッキリいって問題ないのです。
確かに全ての作業が相互補完的なのですが、とりわけ演出がダメだと作品まるごとダメに映るんです。
なぜかというと、演出を欠けば制作者が戦略的な意図に沿って作る「作品」として成立できないからです。


演出とは何かというと、やや抽象的に言えば「世界観の実現」ということになります。
これは作品の世界観とも演出家の世界観ともいえるのですが、いずれも原則的に演出する側の意図によって構築されます。
つまり、制作側から言えば「いいたいことをいわせてもらう!」ということです。


ここで、観客は何らかの反論が許されるかというと、それはできません。
ここが「演出」のおもしろいところ(特殊な部分)で、観客とは双方向ではないんです。
なぜかというと、演出はその構造からして抽象的な場面において構築されるわけで、
見ている側は「その抽象性」に阻まれて、構造上は演出家の主張までは到達できないようになっているんです。


通常、演出は戦略的なわけで、全体を通してしか観客には理解できない。
ですから、かなり演出が上手い作品となると「何か分からないけど、分かる気がする」という状態に陥ります。
「あの映画、2回見たら分かった!」と喜んでいる人もいますけど、実際に喜んでるのは演出家であり、
観客はまんまと術中にハメられて本当は苦い思いをしても良いはずですが、
まあ、両方喜んでいるのですから問題はないでしょう(笑)。


というわけで、演出というお仕事はかなり難しいのは当たり前に予想されますから、
それに挑戦したいと思いかけてる私は無謀かもしれません。
でも、何か接点だけは持ちたいと思っているので、今のところ極めて真剣に考えています。


宏哉さんに次回お会いするときは、演出についてもう少し話してみたいなぁと思います。


最後はネコミミの話です。
もう、これは神の音楽ですよ!
私が全生命をかけて保証します(笑)。


というのは冗談で、初めて試聴したとき、心から沸き上がる様々な感情(喜怒哀楽)に、
私の中央演算装置の処理能力は瞬時に限界に達し、悲鳴を上げました。
身体内部諸機関には非常警報が鳴り響き、もはや緊急制御システムは壊滅状態。


生き残っているシステムを再構築し、左右の内耳をレベル1で物理閉鎖しようと試みるも、
両腕の制御系プログラムに「フニャーン フニャニャン?」と叫ぶ未知の分散型ウイルスが多数発生しているため、
外耳装甲板(ヘッドフォン)の強制排除も不能。最終防衛ラインをいったん下げて、生命維持を最優先。
その間にも容赦なく「ネコミミモード」が連発照射され、最強を誇る中枢エリア近傍の防壁も無惨な姿に。
(※中枢エリアへの外部侵攻は、例の学祭前夜の井上喜久子事件以来2度目となる)


活動停止→暴走の最悪の展開を予想したメインシステムは、最後の力を振り絞りBダナン型防壁を展開。
しかし、時既に遅く、中央演算装置の至る所で「キス…したくなっちゃった…」と囁く未確認の潜伏型ウイルスが合体増殖。
ワクチンを全方位に全種投下するという禁じ手を使った甲斐もなく、私は完全に活動を停止したのでした。


そして、「おにいさま」という魔法の呪文でセキュリティシステムは再起動。
全域でプロテクトコード:「ネコミミモード」を維持するに至った……、そういえると思います。


いやぁ、実に良い音楽と声だ。
いままで数々の音楽に出会ってきましたが、これほど衝撃的なものはないと断言できる。
すごいですよ〜、音楽の価値観が変わりますよ〜。


今も聞いてますが、うーん、癒されるなぁ。
月詠』という作品を完全に無視して、
声の発信元をアニタ(『R.O.D -THE TV-』の主人公)に置き換えるとなお良い!!
(※アニタ…ちびっ子・わがまま・怒りんぼ。牛乳とカエルくんが大好きな中学1年生の女の子)


恥ずかしがり屋のアニタタソが「キス」や「ネコミミ」だなんて直接的な表現を用いて、
それに少々赤くなってるところを想像しながら聞くと、人として到達してはいけない境地に達します。


しかし、心的平和とはこういうことをいうのですね。
さっそくですが、つい先程アマゾンにて注文を済ませました。
興味ある方も是非この機会にお買い求め下さい。


『月詠 MOON PHASE』 OPテーマ 「 Neko Mimi Mode 」


追伸:
宏哉さんご夫妻には大変お世話になりました。
かなり久しぶりに食べた温かい食事は本当においしかったです。
ありがとうございました。