私の発見

午前の授業が終わり、外に出てみると雨、風ともに強くなっていた。
教室移動のためか昼食のためか、キャンパスには色とりどりの傘が溢れている。
大学の中じゃごくありふれた光景で、今日も歩きながらボーっと眺めていました。


通常、私はメガネをかけて外を歩くことはありません。
ですから、「この前無視しただろう」と友達に怒られることも多いのですが、
別に知らんぷりをしてるわけではなく、本気で見えないからなのです。


視力は両目で0.01以下なので、ハッキリ言って1メートル近くまで寄らないと誰だか判別できません。
10メートル先で名前を呼ばれて手を振る友達がいても、私の目にはボーっと映るだけでして、
一応「おー」と言って手は振りかえすのですが、やはり近距離にならないと分からない。


「だったらメガネかけろよ」って話ですが、目が疲れるってことと性格(面倒くさがり)が邪魔します。


で、相変わらず今日もメガネをかけずにキャンパス内をウロウロしてたわけですが、
いつもいつもボーっと映る光景に、ギクリとなりました。


メガネをかけずに見ていた光景と私の思考形式はどこかで繋がるんじゃないか?、と。


私は、かなり科学的な人間だと思っていたのです。
しかし、最近というかここ数年、それがまったく別の形で終結するので困っていました。


科学とは分析する学問ですが、私の思考回路も同じように科学的であるはずでした。
つまり、私は物事を分析すること(分析的に考えること)が好きなのだ、と。
でも、私の場合は結論がまったく”小さく”ならないのです。


いつも大きなもの、流れというものを意識しながら考えている。
それは文章を書くときなんかに特に重要なもので、誰もが当然のようにやっていることですが、
私の場合は思考(意見、主張)の対象も帰結もいわば”流れそのもの”なのです。


これがいったいどういうことなのか皆目見当がつかなかった。
どうして分析しているのに、終わってみれば分析とは逆の方向に向かってしまうのか。
しかも、抽象的でますます分からなくなってくる。


その答えが、お昼に見たキャンパスの光景だったのです。
メガネをはずしてその光景を眺めていたのですが、それが意識・無意識的に関わらず、
私は確かに”ボヤ〜っとしたキャンパスを見ていた”のでした。


そして、それで良いと思っていた。
ここが重要で、私はボーっと見えたままでよかったのです。


つまり、簡単に言うと、私が興味あるのは「現象」ということになるのです。


見るからに理数系っぽい男が肩をすくめながら歩いている。
右足を先に出すか左足を先に出すか、どんなことを考えてどういう表情を作っているのか、
そういうことに興味がなかったのです。


そうではなく、彼自体(彼という現象)を私は見ていたのです。
だから、雑に言えばメガネをかけずに(よく見えなくても)平気なわけです。


逆に言うと、メガネをかけていたらなかなか見えない(分からない)っていうことなんですよね。
これは様々の偶然が関わっているうちに、偶然そうなったとしかいいようがない。
いや、むしろ、そういう状況(視力低下)にあったからこそ、無意識的に思考形態を変化させたのかもしれない。


さらに、思考の対象が現象であれば、当然分析すると「観念」にしかなりえませんので、
私の思考も”大きなもの”にしか帰結しないわけなのです。
そこで問題になってくるのが、具体化の作業。


観念だけで終わってしまえば自己完結してしまうだけなので、目に見える形にしないといけませんからね。
私は運が良いことに、この具体化の作業を毎日とはいきませんが度々やっている。
それはもちろん、この日記のことです。


日記を書くっていう行為は、(私にとっては)現象を観念へと昇化させ、それを具体化する作業となります。
自己矛盾というとちょっとおかしいですけど、先に書いた「分析してもなぜか二つに分かれない」という悩みが、
これで何かこうパーっと解けるような、周りが開けていくような感じがしました。


これでスッキリした。
もう何も言うことはない。
これでゆっくりじっくりはじめから物事を考えることができます。