親殺しのパラドックス

親殺しのパラドックス(過去で自分の親を殺したら、自分は生まれない)について、
それが不可能であることを延々と書きつづったのですが、
とうとう途中で頭がおかしくなりました(゜_。)
だから、最初の文章は破棄。
ちょっと頭を整理するつもりで新しく書くことにします。


過去に行くっていう行為だけで、既に世界は分岐してるんですよね。
つまり、山田くんが2005年から1960年に行くとすると、
山田くんのお父さんがヘルメットかぶって石投げてる時点で、
既にもう一つ別の世界ができていたことになります。


んで、2005年からやってきた山田くんが、1960年の父を殺すわけです。
そうすると、途端に山田くんは消えてしまうってことですが、
そういうのってあり得ないと思うんです。


つまり、父親を殺した世界以外の世界が存在しないって保証が、
どこにあるのかっていう。
「世界は分岐する」とか「無数の世界が存在する」とかいっていながら、
殺した時点で急に「世界は一つ」って考えになってしまう。
それはおかしいですよね。


「世界は一つ」であれば、過去へは行けません。
過去へ行けば、その途端に世界はそれ以上あることになってしまう。
反対に「世界は無数」であれば、過去へは行けます。
でも、この仮定でいけば過去で自分の親を殺したからといって本人が消えることはありえない。
整理すると、

  • 2005年の山田くんのいた世界
  • 1960年で父親を殺した世界

があるわけですけど、1960年で父親を殺してしまっても、その世界には山田くんはいるんです。
要するに、山田くんは1960年に分岐した別の世界に行ってるってことですよね。
そうでなければ、おかしい。
なぜなら、山田くんは1960年には存在していなかったから。
分岐して別の世界が用意されてるから時間移動できるわけで、
例え、過去の自分がいる世界でも、重複して存在できる理由はそれしかない。
つまり、時間移動した先が完全に別の世界だからです。


そう考えれば、どうして「親殺しのパラドックス」なんて起こるのかな、と。
別の世界に存在していた人間が、別の世界で親を殺して、
どうして両方の世界で存在しなかったことになってしまうのか分からない。
事実が跡形もなく消えてしまうことが何とも不思議。


現在っていうのは過去の積み重ねなわけです。
時間的には1960年は過去でも、
タイムマシンで出発する前の2005年の彼からすれば未来になる。
だとしたら、山田くんが消えることの方がおかしい。


例えば、山田くんが赤ん坊の頃、知らぬ間にタイムスリップしてるとします。
本人が気付かないうちに。
運良く誰かに拾われ、大切に育てられ20歳になりました。
さっそく免許を取って車を走らせてると、飛び出してきた子供を跳ねてしまいました。
小学生の男の子は即死でした。
ここで、その子供が山田くんの父親だったとすると、
山田くんは何も知らないまま消えてしまうわけです。
子供を跳ねて、その子供がアスファルトに頭部を強打した瞬間に。
本人にしてみれば、酷い話です。
運転手を失った車は慣性で走行を続け、
歩道を歩いてた人を次々と跳ねるなんてことになれば、もっと悲惨。
いまだかつて、そんな酷いSF小説は読んだことがありません。


だから、おかしいんじゃないか、と思います。
自覚ののあるなしに左右されるなんて考えられない。
だから、例え父親を殺しても山田くんは消えるはずがない。


つまり、1960年に父親を殺した山田くんが、そのままその世界で生きていけば、
父親の存在しない世界を生きられます。
しかし、そこで別の世界(2005年とか)に旅立ったとしても、
それは1960年に父親を殺した世界とは全く違う世界なのだから、
父親がいない(自分が存在しない)、とは考えられないんですよね。


タイムマシンっていう現象だけにとらわれすぎてると思うんです。
安易に一切を省略してしまう。
だから、わけのわからないことになる。
現在っていうのは過去の積み重ね、だと書きましたが、
そうすると、父親の存在しない世界には、彼は行くことができないのは当たり前です。
存在自体がポンポン動くなんてことは、普通に考えればありえない。


というと、タイムマシンだってポンポン動くじゃないか、
と考えるのこそ、先にも書いた「現象だけにとらわれすぎてる」ってことです。
山田くんは時を旅してるようで、彼の時間では”現在”は続いてるわけです。
だから、ポンポン動くわけでもなんでもありません。
1960年という世界で彼の”現在”を展開してるにすぎない。
基本は「もとの世界」なんです。
だから、もとの世界と同じような別の世界(分岐した世界)は変えられても、
もとの世界は変えられず、またその世界に一旦足を踏み入れたら、
その先のその世界の未来には決していけない。
これこそ「世界は無数」だという時間移動に絡む考え方の根本じゃないのかな、と思います。


2005年という時間には、もとの世界も含まれています。
だから、過去や未来からは、何も変わらないもとの世界に”も”戻れる。
しかしながら、過去や未来へは、分岐した世界の一つ”しか”いけない。


まとめると、「世界は一つではない」ということになれば
「世界は無数に存在」することになりますが、
それがどうしてタイムマシンの行き先を本人の意志によって
選択できるようになるのか、ということです。
父親を殺した未来、に行けば、自分は存在してませんけど、
そうではない世界はたくさんあるわけですから、直ちに消えるわけがない。
本人にとってみれば現在だし、帰ることができる世界がある以上は、
存在していて当たり前です。
運良くもとの世界に帰れても父親は生きているでしょうし、
それ以外の世界に行ってしまえば、そこでどうなってるかは分からないはずです。


世界は無数に存在していながら、運と偶然に頼って二種類の世界しか行き来しない。
二種類というのは、もといた世界と旅立つ先の世界、です。
でも、帰る場所は決まって旅立つ先の世界ですけれど、
未来や現在っていうのが過去の積み重ねである以上、それはあり得ないんじゃないか。
…と、まあ、IQ80前後の馬鹿が吠えてもどうしようもありませんし、
もともと考えが足らないから、こういうことを思考するのかもしれませんorz
やっぱり、混乱して分からなくなりました(苦笑)。


追伸:
私は「世界は一つ」派です。
でも、「世界は無数」あったら楽しそうだなぁ、とも思います。
そこで、根本的な疑問が一つあって、果たして山田くんは西暦794年に存在できるか、ということ。
同じように、山田くんは西暦2250年に存在できるか、ということ。
ある瞬間を現在としたら、その現在は過去の積み重ねですよね。
それを無視して、その世界に存在できるのだろうか、っていう。
オーパーツの類とは次元が全く違います。
時間の積み重ねがない生命体が、どうやって存在できるのだろう。
その方法をタイムスリップとか何とかいうみたいですけど、
過去のない者が、突然過去に存在し、過去を変えるって、それはどういうことなのだろう。
私が想像するには、少し大きすぎるので、時間をかけて考えてみます。