空き缶

懸案の業界に入るべきか否か。
噂の進行という職業についての検討は既に済んでいます。
――ぶっ壊れるときはぶっ壊れる。
結論はこれしかない。


アニメの業界に入る際に一番の懸念事項はそのことで、
監督になることや、作品を残せるかどうかは全く心配していません。
理由は単純で、私の能力からすれば全然難しいことじゃないと思うからです。
自己の過大評価や自信過剰といった次元とは性質が違って、
例えば「やってみよう」と「やってみせる」の違いのような感じでしょうか。
やってみせなければいけないし、もの凄くやってみたいと思う。
もちろん、苦労や挫折は何度も味わいそうですけど、それを含めて楽しみ。


個人に帰結する思考的傾向の強かった私が、どういうわけかマリみてに出会い、
集団も悪くないかもしれない、などと思い直し、
それが人生の転機に大きな影響を及ぼそうとしている、と思っている。
おもしろいなぁ、と思うと同時に、現在という時間を真剣に考えます。
人生っていうのは、良くも悪くも解釈次第で大きく変わるもの。
ひたすら分解していけば、気付くか気付かないか、そのどちらか。


つまり、河原を歩くだけでも、空き缶を見つけることによって変わりうるということで、
その空き缶を人生という長い時間で活かすかどうかは、空き缶を見つけたときの自分次第。
空き缶からはじまる人生もあるし、空き缶を素通りしてその先の何かに気付き、はじまる人生もある。
これは単純に意識or無意識下で”自分”が現在の自分に「何かを見つけなさい」という指令を出してれば、
空き缶を見つけたときに必ず立ち止まり、そうではない場合は立ち止まらない、ということ。


人生は一つだから、どちらか一つの道しか選べない。
しかし、どっちを選んでも失敗ではないところに、人生のおもしろさがある。
ということは、現在の自分が空き缶の重要性を認識し、空想して、
それを発想に転換し、行動という名の実行力に昇華させればいいだけのこと。


ということは、業界には入れってことなのか、と考えるんです。
漫画家もイラストレーターも、ほとんど興味がない。
イラストは、といっても落書きですけど、趣味の域を脱しないことは明らか。
漫画家も少し前まで「悪くないかも」とは思っていたのですけど、
みんなで何かを作り上げる、っていうことは調整型の人間には面倒くさいものだ、
なんて思ってましたが、それは実はおもしろいことだと気付きました。
マリみてのおかげなんですけど、つまり、色んな人の手が加わることによって、
新しい何かが生まれるっていうことは、それは単純に美しいものだと思うからです。
ある限界を破るって意味では、それ以外の方法はありません。
私はデメリットの方ばかり目がいってましたけど、メリットの方が大きいかもしれません。
だからこそ、今のアニメの発展があるのかも、と思うんです。


一時の迷いではないところが嬉しい反面、困っています。
うーん、あと一歩何か足りないんですけど…、それが何か分からない。
審判の時は間近に迫っているので、これから心的変化が必ずあるはず。
そこを見極めたい。