死と意識変化

2年前に大病を患って私は再起不能になり、大学の夏休みはほとんど寝て過ごしました。
これは私の人生に対して非常に大きなターニングポイントになったんですけど、
そこで思ったのが、やっぱり、人生の中で「死」を意識する瞬間っていうのは大切だってことです。
もちろん、乗り越えることがもっとも大きな前提となりますけどね。


ただし「あの時の自分はもう死んだんだ」「何だってできるじゃないか」
などという漫画や小説でよく見かける甘い感覚では、全然死にきれていません。
そういう表面的なことではありません。
本当に「死」を意識したことのある人間は、間違ってもそういうことを言えないし思えない。
もし思うのであれば、それは精神のどこかにまだまだ余裕のある証拠です。
だから、例え自殺の場合でも病院に担ぎ込まれて救命措置をされて、
意識が戻ってから過酷な現実と対峙した時にしか意識的に変化できないんじゃないか、と思います。


つまり、意識的に変化したことを説明できる、ということが問題なんですよね。
「以前の自分を捨てる」とかそういう感覚ではなく、こういう”追いつめられた”感覚では決してない。
必要に差し迫り追いつめられて逃げ場がなくなりどうしようもなくなって、はじめて「終わり」を意識するんです。


勉強に例えると分かり易いのですが、明日大本命の大学の入試があるとします。
それまで遊びに興じて今いち危機感のなかった男が、机の前で何を考えるのか想像してみれば分かります。
もはや「落ちたらどうしよう」なんて考えることはできないわけです。


これは例えですしもちろん受験なのですから時間的に切迫した状況というのもありますが、
これが「生死」に関わるものとなると、そのインパクトは究極的なんです。


「死ぬのはイヤだ」というところからの出発です。
キツいですけど、それが必要な人には必ずそういう時がやってきますし、
私は楽しい楽しい大学時代の大半を闘病とリハビリに捧げる結果になりましたが、後悔はありません。
心身共に立ち直れた自分がいるだけで、それだけでお腹いっぱいです。