選択の問題性

予定が空くと必ず新たな予定が入る。
なんなんだろう、これは…。
偶然と呼べるのか、それとも必然と呼んでいいのか。
楽しい予定が繰り返し入ればいいんですけどね、人生そう甘くはない。
初めに書いときますけど、以降の文章は極めて私の主観に沿って書きますので、批評・批判は勘弁して下さい。


ハッキリいうと、告白というのは「断られる」より「断る方」が何倍も苦しい。
実際に断られられたことはないので、その辺はあやふや(主観)なのですが、とりあえず例を出します。


例えば、例えばですよ(念のため)、AさんとBくんがいて、Aさんは色々考えるわけです。
Bくんと付き合えたらあんなこともしたいこんなこともしたいなぁ、
だけど…断られたらどうしていいんだろう、平常でいられるかなぁ、とか何とか。


しかし、仮にBくんが”友達として”Aさんを見ていた場合はどうでしょう。
普段と変わらず接しているときに、いきなりAさんは真顔になって「好きです、付き合って」と言うわけですよ。
Bくんにしてみれば青天の霹靂であり、まさに予想もしてなかった展開が急に来るんです。


『耳を澄ませば』の雫ちゃんのように「私、私……」と走って去っていくなら一番楽ですが、
やはり大人としてはそうにはいかないわけですよ。
私が顔を赤らめながら「俺は…、俺はッ」といって走り去って行こうものなら、
「豆腐の角に頭ぶつけて氏ね!このオタク野郎が!!」というセリフが背中に突き刺さって死亡するのは必至。


ですから、Bくんとしては、速攻で結論を出すか、しばし固まった後に結論を伝えるしかないのです。
いまはラブレターなんてものを交わすのはせいぜい高校生くらいまでなので、
しかし、そのかわりBくんにしてみれば執行猶予(モラトリアム)が発生しないんですよね。


ラブレターというのは、Aさん、Bくん両方の側から見て素晴らしいシステムだと思うんです。
Aさんは目に見える範囲における意志の確立という観点から、Bくんは時間的制約の縮小という観点から、
お互いにとっては空間的自由度の意味で極めて有利な構造となっています。


っと、いまはなきものを賞賛したみたところで何の解決にもなりませんから先を急ぐとして、
なぜラブレターの話を持ち出したかと、いまはそれに変わりつつあるものがあって、
それがメールであることを言いたいんです。
(※メールがラブレターになれるかどうかの問題は別として、現実にそういう事象が存在することを言ってるだけです。)


メールは時間的自由度が極めて高く、空間的自由度にしてみればラブレターとは比べものにならない。
他にあげるとすれば幾らでもあるのですが、その辺は本論とは関係なくなるので割愛するとして、
制約(問題)があるとすれば、いくら愛を語ったところで、それはあくまで電子メールでしかないということです。


なんでこういう話をするかというと、例えば、例えばですよ、AさんがBくんにメールを送るとします。
「好きです。付き合って下さい」と書かれたメールをBくんが受け取ったとき、どう思うのかって話です。
BくんがAさんを熱烈に好きな場合は話は別として、友達と思ってる場合は、普通は「はぁ?」ってなりますよね。


これはちゃんと理由があって、メールはラブレターと違って携帯電話に予め登録されているフォントで表示されるからです。
つまり、自筆とは全く異質のフォントという性格上の弊害がここで発生するわけです。
読んでいる側の主観に左右されやすく、分かりやすくいえば悲しい時に読むのと楽しい時に読むのは違ってくるわけで、
また、それは送信者に対する主観に極めて敏感なものであるといえます。


自分で書けば、ある程度までは文字(自筆)にもその真意が付与(反映)され、
同じ「馬鹿」という文字でも、相手側(筆談の相手)は多少の誤差はあるにしても、
狭い意味での自分を取り巻く環境(相手の顔だとか雰囲気だとか)を加味することによって正確に伝わります。


それが環境などの制約が全くない電子メールでは、真意に通じる思考材料に関わる要素が個々で全然違ってくるので、
ラブレターの本質がある種の感情(真意)であれば、メールは決定的にダメなものになる、というのが私の考えです。
分かりやすくいうと、自分で書いた「馬鹿」という文字は世界に一つですが、
メールで書いた「馬鹿」という文字は無数に存在する、その違いと理解してもらって結構です。


「馬鹿」は「馬鹿」でも、嫌な奴から受け取った「馬鹿」というメールと、
アニタのように可愛い子から送られてきた「馬鹿」というメールは、
同じ文字、装飾でもやはり決定的に違うワケなんですよね。
前者なら「何だと!?」となりますけど、後者なら「フニャニャ〜ン」となるように、
それが自分の書いた文字と機械が書いた文字では、格段にその差が大きくなってしまう。


だから、広い意味での「依存」であるとしか私は受け取れないわけで、
メールで告白しようとする人間の心理はいつになってもまったく理解できません。、
例えそういうメールを受け取ったところで酷くガッカリするのみで、
私に関していえばどんなに相手の子が良くても初めから論外にしています。


感情的にいえば、時間的・空間的利点に甘えたまま大事な決定を下すという心意気がダメなんですよね。
古い人間かも知れませんけど、私は強くそう思うわけです。


 ※ここで勘違いされると困るで書きますが、メールが良いとか悪いとか言ってるのではないのです。
 普通の用件だけ述べたメールなら問題ない理由は、つまり、そこに感情があるかないかです。
 用件は用件として定義できますから全く問題はありませんが、感情は個々で違うので明確に定義できない。
 やはり、受け取る側の人間の時間、空間、広い意味での情緒に左右される不安定なものになるから、
 だから、メールはラブレターには決してなれない、と言いたいのです。


さて、Aさんは当たって砕けろ精神でBくんの言葉を遮ります。
んで告白したとして、前にも書いたとおりBくんは時間的にも空間的にも縛られてしまいます。
まさに「!?」って状態で頭はパンパンなわけで、特に気になる人もいなければ
「考えさせて」というより他はないのです。


それから、Aさんは天国と地獄しかないわけで、色々考えるでしょうが待つのみです。
しかし、Bくんからしてみれば、もう思考課題としては山積みの状態で、得てして悪いことしか思い浮かびません。
「付き合ってから」のことよりも「断ってから」の方が圧倒的に弊害(課題)は多いからです。


どうにもAさんを恋愛対象と見れない場合、もはや自分を恨むしかありません。
何も悪いことはしてないのに、環境だけが変わっていくんですよ。
誰を責めようにもないんですから、これはハッキリいってキツいです。
悪いのは、Aさんを好きにさせてしまった自分?それとも好きになれなかった自分?
何れにせよ、そんなもんどうしようもないじゃないか、という結論にしてしかBくんは先へ進めません。


というように、告白というのは「断られる」より「断る方」が何倍も苦しいと感じます。
ハッキリ自分が悪い(顔が悪い、性格が悪い等々)といえるAさんより、
そうとはいえない現実に悩まされるBくんと、単純なる比較と私の主観に基づいて書いてみました。


ああ、これを書くと少しは気が紛れるのかな、と思ってみても、やはりダメだ_| ̄|○
モラトリアムがほしい…。


追伸:
勢いに任せてダァーっと書き上げたので、たぶん文中前後でおかしな箇所があると思います。
ご了承下さい。